●こうして、現在のスタイルが決まった。

 まずは、なぜ、人形を作り出したのか。1980年代後半、1/24の自動車のプラモデルを改造して遊んでいた。セルシオのFFライトバンや、ハイラックス・クーペなど、ふざけた車を次々と造っていた。記憶が曖昧だが、サバンナRX-7の改造車を造った時だったと思うが、運転席に自分の人形を入れた。本家・飯塚隆行事務所のHP「初期の作品」と、同じ材料の、エポキシ樹脂とプラスティックで造ったものだった。プラモに飽き足らず、自動車のシャーシも造るようになり、更にプラモから遠ざかると、広島東洋カープの選手の人形を作るようになる。この時点では、まだ、立体イラストとは呼べず、エポキシ人形と呼んでいた。

 この、エポキシ人形は、仲間うちで評判になり、××ハンズ大賞に応募しようと、戦後の少年たちが、原っぱで野球をやっている作品をつくる。これが、私の立体イラストの原点なのかもしれない。××ハンズ大賞は、結果に結びつかなかったが、ある日、漫画家やまもとあきが、私の仕事部屋に置いてあるエポキシ人形を見つける。「お前、こんなの集めてるの?」どこかで売っているものだと思ったらしい。私が作ったものだと知ると、彼は、持ち帰り、自宅の便所に飾ってた。現在も、やまもとあき宅の便所には、原っぱで野球をやっているエポキシ人形が、試合を続けている。

 やまもとあきのすすめもあり、エポキシ人形で、戦後の風俗を描いた作品を何点か作っていく。なぜ、戦後にこだわっていたのか、明確な理由が定かではないが、素朴な幸せを表現したかったのだと思う。このころ、私のホームページを見たレンタルポジの業者から連絡があり、実物を見せに行く。実物が、予想外に小さいので、媒体に使えないことが判明する。

 大きめの作品を作るため、材料を変更する。現在と同じ、スタイロフォームを心材として、石膏粘土で形成する手法だ。内容はさておき、商業的な要素を取り入れた、かわいらしい人形を作りはじめる。完成した作品は、ただ、かわいらしいだけで、作者として、なんら魅力を感じないものだった。

 すぐ、気が付いた。作品として残していくものは、作者が魅力を感じているものでなければ、作り続けて行けない。バブル経済が崩壊し、あらゆる意味で息苦しい時代。こんな時だからこそ、貧しいながらも、力強く暮らしていた人間模様を作ろう。ただ、かわいらしい人形では無く、人形同士が現す感情が見る人に伝わる映像。私の立体イラストが、誕生した。