じりの頭に、ごま塩ひげの見慣れた顔ではく、黒々とした髪を横分けにした青年だったのだ。 その瞬間、自分は前田謙二郎。昭和十三年生まれの二十二歳。時は昭和三十五年。そして、 目の前にいる女性は、前田ミチ、自分の母であるというを認識する。 しばらく、ガラスに 映った変貌している自分の姿を見つめて「なぜだ・・」と考え込んでいるが、自分は、これ から朝食を取り、職場へ向かうということが頭に浮かんだだけで、自分が坂本昭二なのか、 前田謙二郎なのか、わからなくなってしまった。頭も、体も、100パーセント自分のもの ではないという不思議な感覚をおぼえたが、坂本はミチと目があった瞬間に、前田謙二郎で ある自分をごく自然に受け入れていった。 「どうしたの」ミチに声をかけられ、 「ああ、おはよう」と答え、茶箪笥からガラスのコップを取り出し、鍋を温めている母の横 に並んで立ち、正面の蛇口からコップに水をくんだ。冷たい水を一気に飲み干し、流しの中 にコップを起き、朝食が用意された居間に向かった。 前田家は、母親のミチと謙二郎、父親の正吉郎、長男(謙二郎の兄)孝一、そして謙二郎 の妹、伸子。五人家族が暮らしていた。父正吉郎と、長男孝一は、正吉郎が経営する前田内 燃機に設置する工作機械を、引き取りに行くため、関西の明石までトラックに乗り込み、 前日の夕方ここ横浜を出発していた。 |
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